よく見る地名ですが・・・
中国近代史に入ってからよく目にする地名、武漢と武昌。
まずは武昌。辛亥革命に発端となった、1911年の武昌蜂起〔武昌起義〕で高校世界史ではまず登場します。
それから、武漢。蒋介石が樹立した南京国民政府に対する、汪精衛〔汪兆銘〕の武漢国民政府や日中戦争中の国民政府の拠点として登場します。
高校の授業で使う資料集で確認すると、ページが違えど何となく同じ位置に見えます。今回はその辺りを説明しときましょう。
実は…
武漢と武昌、ほぼ同じ位置です。図を見てください。
長江に流れ込む漢水、その漢水の北が漢口。漢口の南が漢陽、それらの対岸が武昌。これら三都市を総称した名が、武漢です。なので、資料集がほぼ同じ位置を示すのは当たり前なんです。
ちなみに
武漢は現在湖北省の省都で、明代の湖広〔ここう〕省の省都も武昌に置かれていたようです。
米の生産地が長江中流域に移動した事を示す言葉「湖広熟すれば天下足る」のあの湖広です。湖広とは、現在の湖北省と湖南省に当たる地域のこと。長江中流域の洞庭湖の北側が湖北、南側が湖南になります。
あと1838年に清の道光帝から欽差大臣〔きんさだいじん〕に任命され、アヘンの取り締まりを行った林則徐〔りんそくじょ〕が湖広総督であったと授業で耳にするかもしれません。
清の時代、総督とは二つ以上の省を治める長官のこと。一つの省の長官は巡撫〔じゅんぶ〕といいます。変遷がありますが、林則徐の時代には湖広省ではなく湖北省・湖南省に分けられていたようです。
おまけ
武漢を構成する三つの都市、武漢三鎮といわれますが上の図を見ておかしなところはないでしょうか。
秦の都であった咸陽、後漢などの都であった洛陽を思い出してほしいのですが「陽」とは「山の南・水の北」を指す語であったはずです。渭水の北・九嵕〔きゅうそう〕山の南であったために「咸〔みな すべて〕陽」なので咸陽、洛水の北なので洛陽です。
日本の山陰・山陽も例にあげて説明しますよね。
ところが漢陽は漢水の南です。これは明代に漢水の河道付けかえを行っているため、流域が北に移動しているためです。つけかえられた後も、習慣で漢陽と呼ばれ続けたわけですね。ゆえに漢口は明代以降に形成された町、武漢の名称も明代以前には存在しません。
二十五史を検索してみましたが、『清史稿』が初出でした。あまり使えなさそうなネタ話ですが・・・