中国の王朝名はなぜかぶるの?

中国の王朝名はなぜかぶるの?

「あれ? この中国の王朝名は前に見たよ」ってことが何度か起こります。例えば魏。

  • 戦国時代の魏。
  • 曹操が実質的に建国し、その息子曹丕が後漢献帝から禅譲を受けて帝位に就いた魏。
  • 鮮卑族拓跋氏の北魏。
  • 北魏が東西に分裂してできた西魏・東魏。

他にも結構あります。

  • 宋〔春秋戦国の宋・南朝の宋・趙匡胤が建てた北宋・靖難の変以降の南宋〕
  • 晋〔春秋の覇者文公がでた晋・司馬炎が建国した西晋・永嘉の乱以降の東晋〕
  • 漢〔劉邦が建てた前漢・光武帝劉秀の後漢・五代の後漢〕
  • 斉〔春秋の覇者桓公がでて戦国最後まで残った斉・南朝の斉〕
  • 周〔殷王朝に代わった周・五代の後周〕

時代も全然違うのに、同じ王朝名。

前漢や後漢、北魏や西魏や東魏の「前」「後」「北」「西」「東」は建国者がつけた名前だ、と思っている人いませんよね。

前漢の建国者劉邦が「自分が建てた漢は一旦滅びるから、王朝名を前漢にしよう!」とか予言です。後漢光武帝劉秀も「漢を復活させたが、2回目なので後漢にしよう!」とかそんな遠慮深いやつは皇帝になりません。

当たり前なのですが前漢・後漢はどちらも「漢」ですし北魏・西魏・東魏は全部「魏」で、基本中国の王朝名は漢字一文字です。

魏を例に

戦国時代の魏は、春秋時代に畢万〔ひつまん〕という人が晋に仕え功績をあげ、魏という名の邑〔ゆう 都市国家との解釈で良いです〕を晋侯からもらいました。春秋覇者の一人、晋の文公が登場する少し前のことです。

これ以降、畢万の一族は魏氏を名乗り、この一族が支配する領域を魏と呼ぶようになります。

魏氏は晋の卿〔けい 大臣のこと〕となり勢力を拡大し、遂には同じ晋の卿であった趙氏・韓氏と共に晋を分け取りにしてしまいます。

戦国時代の魏は「地名に因んだ」名前なんです。

恐らく始皇帝の中国統一や秦末の混乱期に、それまでに在った諸国に因む名が「地名」として確定したのではと推測します。

「ここは昔は魏って国だったよ」とか「ここは燕の都があったところだよ」ってな具合に。それが地域名や郡名や県名・州名に残ります。この「地名に因んだ」王朝名が一番多い、これがかぶる最大の理由です。

日本でも律令時代に付けられた旧国名が「地域名」として残り「紀州銘菓」「江州音頭」などと使われてますが、同じ感覚ではないかと思います。

後漢末期に活躍した曹操は、後漢王朝から魏王に任命されました。後漢の魏王とは「皇帝が支配する後漢という国の中の、魏という地域の王」です。

実質的に曹操は皇帝を凌ぐ最高権力者でしたが、形式的には後漢皇帝の配下である魏王です。

曹操の魏王国を構成する魏郡はじめ十郡には、魏邑も、戦国魏の都安邑も、戦国魏の恵王が遷都した大梁も含まれません。ですが魏王国の都、魏郡に位置する鄴〔ぎょう 業+こざと偏〕は戦国魏の領域内で、恐らく都のように繁栄した街だったのでしょう。

曹操の死後、息子曹丕は魏王の地位を受け継ぎます。なので後漢献帝から禅譲を受けた際に、新たな王朝名を魏としたわけです。

まとめ

中国の王朝名は曹丕の魏のように、建国者が即位する以前に領有していた地名に因むものが最も多い。

漢中王〔漢王〕劉邦は漢、魏の晋王司馬炎は晋〔西晋〕、北周の隋国公楊堅は隋。

隋の唐王李淵は唐、唐の范陽節度使〔中心の現在の北京は春秋戦国の燕国の都薊〕をはじめ三節度使を兼ねた安禄山は燕。

後周の節度使で宋州〔春秋・戦国時代に宋国があった場所〕を根拠地にした趙匡胤は宋ってな具合です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください