さて本題
北斉は東魏の実力者である高歓の子、高洋が拓跋氏の皇帝から位を譲り受け建国しました。これを授業では禅譲と習ったはずです。中国で正統な歴史書とされる二十四史の『北史』『北斉書』を見てみると、高歓は死後に北魏の皇帝から斉王に任じられています。北斉は初代皇帝の父の領土に因んでいる、と考えて良さそうです。
そこで、授業で習った事を思い出せば、春秋戦国時代の斉は黄河下流域の山東半島、つまり現在の山東省に位置しますね。ならば「東魏→北斉」は当たり前、だって「斉」は比較的東だしもちろん東魏の領域内です。
北周は、西魏の実力者宇文泰の息子、宇文覚が西魏の皇帝から禅譲を受けて建国しました。『北史』『周書』を見ると禅譲の直前に、宇文覚は岐陽に封じられ「周公」になっています。
周といえば、真っ先に思い浮かぶのは周王朝。周王朝が興った岐山は、秦の都であった咸陽から少し西にありました。春秋戦国の秦はもともと東周ができた後、西周があった地域に封建された成立した諸侯でした。
だから「西魏→北周」ですね、比較的西だし、西魏の領域内です。
ちなみに
因みに「北」は後の時代の人が、他の斉や周とまぎらわしいために付けたもので、当時は「斉」「周」の一文字だけでした。西魏・東魏も勿論で、ちょっと遠慮して「うちは西魏ね・・・」とか言う遠慮深い奴は国の実権を実力で握ったりしません・・・
世界史でならった「前漢・後漢」「西晋・東晋」「北魏」「北宋・南宋」なども同じで、本来は一文字です。
もひとつ、周王朝が興った岐山、日本では織田信長が「岐阜」を命名したときの伝説で有名です。周王朝が興った場所である「岐山」と、孔子の出身地である魯国の「曲阜」これを合わせて「岐阜」と命名した、というあれです。
さらにブームに乗って・・・ 元々は雅楽や、最近では某ゲームで有名な蘭陵王は高歓の孫に当たります。
それはさておき、こうやって少し深く知ることで「東魏と西魏は、どちらが北斉で北周か」は少し考えれば解ります。テストで間違うことも減るでしょう。
なるべく丸暗記にしないようにしましょう。