まず皇帝とは?
戦国時代末期、秦王嬴政〔えいせい 嬴が姓で名が政〕が中国統一を成し遂げそれまでのいかなる王をも超える存在になったため、新たにつくった称号が皇帝でした。
伝説の中国の支配者である「三皇五帝」の「皇」と「帝」を併せ、「皇帝」の称号を秦王政自らつくり、第一番目の皇帝という意味で始皇帝を名乗りました。
それ以降、漢・三国時代の魏・呉・蜀、西晋・・・と支配する家は変わっても、それ以降の中国支配者は皇帝を名乗るようになりました。
高祖・文帝・武帝、同じ名前が・・・
さて、ここからが本題です。
学習を続けていくうちに、あれ?この名前まえ聞いた、と思うことはないですか。
例えば高祖や武帝・太祖や光武帝などなど、似たようなのもあわせると何度も出てくるような。
- 高祖・・・前漢の高祖劉邦・唐の高祖李淵
- 文帝・・・三国魏の文帝曹丕・隋の文帝楊堅
- 武帝・・・漢の武帝劉徹・西晋の武帝司馬炎
今回は、これを説明しましょう。
かぶる理由、それは「皇帝にはいくつも名前があるから」です。
上の表を見てみましょう。主に「本名・廟号〔びょうごう〕・諡号〔しごう〕」があるんです。
このうち廟号と諡号がかぶります。どちらも世界史では、内容をほぼ学習しないので意味のわからないままになりがちです。
山川出版詳説世界史B教科書でも、明の成立の辺りで
1638年、南京で皇帝の位につき(洪武帝、廟号は太祖①)
①明以降は一皇帝一元号(一世一元)としたため、「洪武帝」のように元号で皇帝を呼ぶことが多い。廟号とは死後におくられる名の一種。
とまあ一世一元の説明のオマケで、理解させることを放棄したような説明ですからね。
廟号とは?
せっかくなので、洪武帝で説明してみましょう。
太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝,諱元璋,字國瑞 『明史』太祖本紀
明の建国者の朱元璋です。
また肖像はWikipediaから。資料集などでも温和なのと厳ついの2枚の肖像画があって、と出てくる有名な人物です。
朱元璋が坊主をやめて元王朝に対する反乱軍に身を投じた時、顔の特異な感じを見込まれて出世したそうですから厳つい方が本物に近いと言われています。
温和なのは今で言うと「盛れた」やつです。ウソです、理想的な「皇帝像」ですね。
それはさておいて『明史』からの引用を見ていきましょう。
まずは「太祖」ですが、これは教科書にも載っているとおり「廟号〔びょうごう〕」です。
説明すると、廟号とは我々で例えるなら戒名〔かいみょう〕のようなものです。
お家に仏壇がある人なら解ると思いますが、仏壇にお墓のような形をした小さな黒塗りの板が立ててありますね。
それは位牌〔いはい〕というものです。
位牌には「○○院○○居士」や「○○院○○大姉」のように刻まれてませんか。
仏教で先祖が亡くなって、そのあとで子孫が供養するための名前です。
「廟号」はその戒名に当たり、その皇帝が亡くなった後で子孫が生前の特徴から文字を選んで付けます。
開祖や大きな功績ある皇帝は選んだ文字と「祖」を、その他の皇帝は「宗」が付けられます。
朱元璋の場合はそれが太祖です。
因みに廟〔びょう みたまや〕とは、祖先を祭るための建物のことです。
この廟号はその家のことなので、皇帝の家が代わり王朝が代わるとリセットされてしまいます。
世界史で出てくる「太祖」でいうと、北魏の太祖拓跋珪・北宋の太祖趙匡胤・遼の太祖耶律阿保機・元の太祖チンギス=ハン・明の太祖朱元璋・清の太祖ヌルハチ、最大限見積もってこれくらいです。
まあ、かぶりまくりですね。
諡号とは?
次いきましょう。『明史』の「開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝」とは何かです。
これは諡号〔しごう〕です。
これは子孫や家臣が、その皇帝の死後に功績をたたえてつける名前です。
朱元璋の場合は「開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝」になります、長すぎです。
もともと諡号はシンプルなものでした。
例えば漢の高祖は高皇帝、漢の武帝は孝武皇帝で、前漢後漢の皇帝はほとんど「孝○皇帝」なため「孝」を省略し「武皇帝、つまり武帝」です。
ただし唐代以降、子孫が次々と文字を足していく追号が流行ったため唐代以降は恐ろしく長くなります。
「開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝」はとても覚えられないでしょう。
表に出てくる玄宗の諡号も無理っぽいです。
よって
- 唐代以前の皇帝は主に諡号と場合によっては本名で〔「○帝」です〕
- 唐代以降の皇帝は主に廟号と場合によっては本名で〔「○祖」「○宗」です〕
呼ぶ事になります。
例をあげれば
- 前漢の武帝・魏の文帝曹丕・西晋の武帝司馬炎・北魏の道武帝拓跋珪・北魏の孝文帝拓跋宏・隋の文帝楊堅
- 唐の高祖李淵・唐の太宗李世民・唐の高宗・唐の玄宗李隆基・北宋の太祖趙匡胤・北宋の太宗趙匡義・北宋の神宗趙頊
てな具合です。
この諡号も王朝が代わるとリセットされますので、唐代以前はかぶりまくります。
ちなみに始皇帝は「死んだ後、子孫や家臣が諡号をつけるなんて不遜〔ふそん なまいき、くらいの意味です〕だ」として、生前に「始皇帝」が諡号になるようにしました。
明代以降は
明代には「皇帝一人につき一元号」の一世一元の制になります。
それまで元号は、天災や奇瑞〔めでたいことの前触れ〕などでコロコロと変わっていました。
よって明代以降は「〔元号〕帝」と呼ぶ事で、皇帝を特定することができます。
朱元璋の場合は元号が洪武なので、洪武帝です。
因みに、明治以降の日本も一世一元の制です。
なので「昭和天皇」と言えば、この「〔元号〕帝」かと思いきや、明治以降の日本では諡号にも元号を付けることになっていますので諡号でもあります。
ゆえに今の上皇陛下を「平成天皇・上皇」と呼ぶのは大変失礼に当たります。
崩御〔ほうぎょ 皇帝や天皇が亡くなること〕された後に付けられる名前ですから。
まとめ
まとめときましょう。
- 諡号と廟号は王朝ごとにリセットされるので、かぶる
- 唐代以前は、諡号+場合によっては本名でOK
- 唐代以降は、廟号+場合によっては本名でOK
- 明以降は、一世一元なので〔元号〕帝+場合によっては廟号・本名でOK
となります。なので「漢の×帝」とか「唐の○宗」とかいう具合に、王朝名と併せて覚えましょう。
完璧だ!と思いきや、何事にも例外はあるもんです。
漢の高祖劉邦は、廟号太祖で諡号高皇帝ですが、なぜか高祖と呼びます。
なぜかは古代の注釈家でもわからんいうてるのに、私に解るわけありません。
あと明は朱元璋が太祖洪武帝、成祖永楽帝と2代だけは廟号を要求される場合が多いです。
土木の変で退位した英宗正統帝は、弟一代を挟んだ後に英宗天順帝として重祚〔ちょうそ 再び位につくこと〕します。
一世一元なので、二回皇帝に即位すると元号が二つ正統と天順、元号と帝で呼ぶとややこしいので、この皇帝は英宗と廟号で呼ばれます。
清は太祖ヌルハチ・順治帝が成祖・康煕帝が聖祖の三祖だと知っておけば、難関校にも対応出来るでしょう。
付けられてる文字には実はルールがあり、光・太・高・文・世などは見てたら特徴的な感じもするんですが、これは別に機会に置いときましょう。
あと入試では三国魏の曹丕は文帝・西晋の司馬炎は武帝が諡号だと良く見ます、まぎらわしいので出題しやすいです。
おまけ
引用した『明史』には「諱元璋,字國瑞」とありますが、諱〔いみな〕とは本名です。
では字〔あざな〕は、というと諱つまり本名を直接呼ぶのは大変失礼に当たります。
本名で呼べるのは目上の人のみで、同輩は字で呼ぶわけです。
これは日本でも同じで、時代劇で「信長様!」とか家臣が織田信長を呼んでますが、この場合はその当時信長が就いていた・自称していた官職、上総介なら「上総介様!」と呼びかけるのが妥当です。
中国の有名な字の例は諸葛亮の孔明、司馬懿の仲達、関羽の雲長など、まあ三国志ですね。
漢文を履修した方なら、項羽の羽は字で、本名は籍だと聞いたことがあるでしょう。