ユスティニアヌス1世
現在我々が目にすることができるアヤソフィア〔聖ソフィア大聖堂〕は、537年に東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が建設したものです。多くの修理・改築を受けているとはいえ1500年前の建築物だと思うと、そこに建っているその事実だけで奇跡を感じませんか。
ユスティニアヌスはササン朝との戦費を捻出するため、市民に対し新たな課税を行いました。532年に起こった「ニカの乱」は、その市民の不満が爆発したものです。戦車競技観戦に集まった市民達の不満陳情から騒乱がスタートし、市民達が「ニカ〔勝利〕」と叫び対立皇帝を建ててユスティニアヌスの退位を迫る、というものであったようです。
現在アヤソフィア南西にあるオベリスクが建つ広場、そこがコンスタンティノープルの戦車競技場跡で「ニカの乱」が起こった場所です。皇后テオドラに励まされ反乱を鎮圧したユスティニアヌスは、直ちに騒乱で焼失した大教会の再建を始めました。「黄金の鎖で、天から吊されているようだ」といわれたドームを持つこの大聖堂を、わずか5年数ヶ月で建設した技術の高さには驚かされます。
537年12月の竣工式、ユスティニアヌスは「ソロモンよ、我は汝に勝てり」と叫んだそうです。古代ヘブライ王国の王ソロモンが建設したエルサレムの神殿をアヤソフィアは凌駕した,
大聖堂の前に立てば、ユスティニアヌスの自負を確かに理解できることでしょう。
バシリカとドーム
視界に入る足場が残念です。泣き言は置いて、身廊と側廊を隔てる柱は華麗ですがドームの重さを支える太さはありません。「黄金の鎖で、天から吊されている」ように見える、要因の一つでしょう。
身廊と側廊、二階「皇后のロッジ」の柱にはユスティニアヌスのモノグラムがあり創建時そのままが使用されているそうです。恐らくモノグラムは赤矢印先の小さい○です。
教会の後陣〔アプス 一番奥〕の至聖所であっただろう場所に、そのままミフラーブ〔メッカを示すくぼみ〕を設置してあります。ただ測ったわけではないので確信はないのですが、入り口から後陣はほぼ東西の線に乗っているはずです。
そう考えると、実際のメッカの方角とはかなりズレがあるような気がします。
後陣内部の装飾。後陣内の緑色の小さいプレートにはアラー・ムハンマド・正統カリフ4名・アリーとムハンマドの娘ファーティマの子、ハサンとフサインの名前が記してあるそうですが、私アラー以外は読めませんが。
後陣の右側にかかっている大きなプレート、これはアラビア語のアラーですね、これなら読めます。
他には、ミンバル・説教壇・図書室・大理石の壺・東ローマ皇帝の戴冠式の場所などがありました。
モザイク
二階は正面の皇后のロッジ、南側の大理石のドアを過ぎると三つのモザイクがありました。帰り通った北側は修復中で、白い布が一面にかけられていました…
モスクとして使用されていた1453年のオスマン帝国メフメト2世による征服からトルコ革命まで、破壊を免れたモザイクは偶像崇拝の禁忌に当たるので漆喰で覆い隠されていたようです。モスクとしての役割を終えたトルコ革命以降、漆喰を取り除き修復が行われ今にいたります。
まずはデイシス。全能者であるキリストを表すモザイクで、マリアと洗礼者ヨハネが左右に。
窓から差し込む光、これはこれで良い感じもしますが、HDR処理をしてみましょう。
次は皇帝ヨハネス2世と皇后エイレネー、息子アレクシオス。ヨハネス2世は、結果的に十字軍を呼び込んでしまったコムネノス朝の皇帝アレクシオス1世の息子。有名な女流歴史家アンナ・コムネナの弟です。
バシレイオス2世で有名な、マケドニア朝の女帝ゾエ。帝位を退いた後の夫コンスタンティノス9世とのモザイクです。このモザイクは、ゾエの経歴が数奇であるため、ビザンツ関係の本でよく見ます。
残念なことにここまで。修復中で見られなかったものが多数です。
見物終了
二階から一階へ降りる通路途中の墓。ヨーロッパの教会にはよくあるやつです。
ユスティニアヌスが再建を思い立ち用地買収を進めたとき、付近に家屋を所有していた未亡人が立ち退きを拒否したそうです。その時ユスティニアヌスは「必ず貴女を大聖堂に葬ってあげるから」と説得し、未亡人に用地買収を納得させた。墓の写真を撮りながら、どこかで読んだなとその話を思い出してました。
最後出口には、上に挙げたユスティニアヌスとコンスタンティヌスのモザイクがありました。