東魏と西魏は、どちらが北斉で北周か

「どちらが北斉か北周か」などと、中国は南北朝時代の話を振っておきながら図は戦国時代の七雄国、「戦国七雄」の大まかな位置です。

間違っているわけではありません。少し遠回りですけど、ここから話すのにはわけがあります。

まず、「戦国七雄」の位置を確認してください。

黄河下流域の山東半島に斉。長江中流域に楚。周が興った渭水盆地。四川省を支配する秦。現在の北京付近に燕。山西省にあった春秋時代の強国、晋を三分割して出来た韓・魏・趙。

今回、注意して見て欲しいのは、斉と秦なので、その他の国家を消してしまいましょう。

 

中国の王朝名、実は大半が「地名」です。ただし元・明・清は違いますし、北魏・五代の後漢など「三国魏に朝貢していたから」や「創始者の姓が劉だから」などの例外はあります。

それらの例外を除けば、王朝名は「創始者が王朝を興す前に根拠地にしていた地名」か「創始者にゆかりのある地名」が王朝の名になります。

例を挙げれば、漢は初代劉邦が「漢中王」であったからで、三国魏は初代曹丕の父である曹操が後漢王朝から「魏王」に任じられていたからです。

と言うことは、北斉・北周の「斉」も「周」も地名なんです。

因みに「北」は後の人が、他の斉や周とまぎらわしいために付けたもので、当時は「斉」「周」の一文字だけでした。「前漢・後漢」「西晋・東晋」「北魏」「北宋・南宋」も同じです。

ここから本題。

北斉は、東魏の実力者である高歓の子、高洋が拓跋氏の皇帝から位を譲り受け建国しました。これを授業では禅譲と習ったはずです。

中国で正統な歴史書とされる二十四史の『北史』『北斉書』を見てみると、高歓は死後に北魏の皇帝から斉王に任じられています。「北斉」は初代皇帝の父の任地に因んでいる、と考えて良さそうです。

そこで、授業で習った事を思い出せば、春秋戦国時代の斉は黄河下流域の山東半島、つまり現在の山東省に位置しますね。

ならば「東魏→北斉」は当たり前、だって「斉」は比較的東だし、もちろん東魏の領域内です。

北周は、西魏の実力者宇文泰の息子、宇文覚が西魏の皇帝から禅譲を受けて建国しました。『北史』『周書』を見ると禅譲の直前に、宇文覚は岐陽、つまりは「岐山の陽〔山の南〕」に封じられ「周公」になっています。

周といえば、真っ先に思い浮かぶのは周王朝。周王朝が興った岐山は、秦の都であった咸陽から少し西にありました。春秋戦国の秦は、もともと東周ができた後で西周があった地域に封建された諸侯でした。

だから「西魏→北周」ですね、比較的西だし、西魏の領域内です。

余談ですが、周王朝が興った岐山、日本では織田信長が「岐阜」を命名したときの伝説で有名です。周王朝が興った場所である「岐山」と、孔子の出身地である魯国の「曲阜」これを合わせて「岐阜」と命名した、というあれです。

それはさておき、こうやって少し深く知ることで「東魏と西魏は、どちらが北斉で北周か」は少し考えれば解ります。テストで間違うことも減るでしょう。

なるべく丸暗記にしないよう、理屈を考えられるようにこれからも説明していきますよ。

Updated: 2018年11月28日 — 11:17 AM

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